Detail
何卒(なにとぞ)わたくしにも災難をお授(さず)け下さりませ――。
師弟であり、実際上の夫婦であった男と女の異様な至福。文豪・谷崎が到達した、絶対美の世界。
盲目の三味線師匠春琴に仕える佐助の愛と献身を描いて谷崎文学の頂点をなす作品。幼い頃から春琴に付添い、彼女にとってなくてはならぬ人間になっていた奉公人の佐助は、後年春琴がその美貌を何者かによって傷つけられるや、彼女の面影を脳裡に永遠に保有するため自ら盲目の世界に入る。
単なる被虐趣味をつきぬけて、思考と官能が融合した美の陶酔の世界をくりひろげる。巻末に用語、時代背景などについての詳細な注解、および年譜を付す。
著者の言葉
作家も若い時分には、会話のイキだとか、心理の解剖だとか、場面の描写だとかに巧緻を競い、そういうことに夢中になっているけれども、それでも折々、「一体己(おれ)はこんな事をしていいのか、これが何の足しになるのか、これが芸術と云うものなのか」と云うような疑念が、ふと執筆の最中に脳裡をかすめることがある。……
(創作ノート『春琴抄後語』、本書「解説」より)
本書「解説」より
(谷崎は)百の心理解剖だの性格描写だの会話や場面だの、そんなものがなんだとの感じが強く湧いてくる、というのである。……ほんとうらしい感じを読者に与えるにはどのような形式がふさわしいかと考えたうえ、作者の言を借(かり)れば「最も横着な、やさしい方法を取ることに帰着した。」それが、この『春琴抄』の物語態なのである。
――西村孝次(英文学者)
谷崎潤一郎(1886-1965)
東京・日本橋生れ。東大国文科中退。在学中より創作を始め、同人雑誌「新思潮」(第二次)を創刊。同誌に発表した「刺青」などの作品が高く評価され作家に。当初は西欧的なスタイルを好んだが、関東大震災を機に関西へ移り住んだこともあって、次第に純日本的なものへの指向を強め、伝統的な日本語による美しい文体を確立するに至る。1949(昭和24)年、文化勲章受章。主な作品に『痴人の愛』『春琴抄』『卍』『細雪』『陰翳礼讃』など。