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我儘な人間のことが、時折気の毒になる――。
日本一有名なネコの可笑しな人間観察日記。
昭和36年刊行の新潮文庫版は123刷、228万部超え! 今なお色褪せぬ、漱石40歳の処女小説。
中学教師苦沙弥先生の書斎に集まる明治の俗物紳士達の語る珍談・奇譚、小事件の数かずを、先生の家に迷いこんで飼われている猫の眼から風刺的に描いた、漱石最初の長編小説。江戸落語の笑いの文体と、英国の男性社交界の皮肉な雰囲気と、漱石の英文学の教養とが渾然一体となり、作者の饒舌の才能が遺憾なく発揮された、痛烈・愉快な文明批評の古典的快作である。
俳人・高浜虚子のすすめのよって書かれた。巻末に詳細な注解および作品解説を付す。
本文冒頭より
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓(とん)と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。然(しか)もあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕(つかま)えて煮て食うという話である。然しその当時は何という考(かんがえ)もなかったから別段恐しいとも思わなかった。但(ただ)彼の掌(てのひら)に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じが有ったばかりである。……
※書生…学生、特に他家に寄食し家事を手伝いながら学業を修める青年。(巻末注解より)
本書解説より
『猫』の面白さは(物理学者の)寒月と(金持・金田の娘)富子の恋という事件ではなく、それを取り巻いている雑談、珍談、色々な小事件、風呂屋の描写、親戚の娘の洋傘の話、金田の妻君と(自称美学者の)迷亭の言い合い、中学生の悪戯(いたずら)、寒月の演説などによるのである。(略)
小説の本質はその筋の発展にあるのではない。小説として純粋に面白い各種の場面の綜合による構成が小説としてよりよい方法である、と言う考えかたから、この作品などはその例であると言われている。つまり話の筋をもととして小説を作るのでなく、面白い場面をつなぎ合わせるものとしてのみ筋はあるのであって、筋を従属的なものと考える傾向である。
――伊藤整(作家)
夏目漱石(1867-1916)
1867(慶応3)年、江戸牛込馬場下(現在の新宿区喜久井町)に生れる。帝国大学英文科卒。松山中学、五高等で英語を教え、英国に留学した。留学中は極度の神経症に悩まされたという。帰国後、一高、東大で教鞭をとる。1905(明治38)年、『吾輩は猫である』を発表し大評判となる。翌年には『坊っちゃん』『草枕』など次々と話題作を発表。1907年、東大を辞し、新聞社に入社して創作に専念。『三四郎』『それから』『行人』『こころ』等、日本文学史に輝く数々の傑作を著した。最後の大作『明暗』執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。享年50。