Detail
一日の躊躇が人生崩壊のもとになる。
あの女が死んでくれればいいんだ、と彼は思った。
第1回芥川賞受賞作家が放つ快作。
貧しさゆえに野心を燃やし、打算的に生きる大学生・江藤賢一郎。資産家の令嬢との縁談、そして司法試験合格。成功への階段を駆け登ろうとしていた彼に、元教え子の女は妊娠したと打ち明ける。人生設計が狂うことを恐れた賢一郎は、女を殺害。自白を促す刑事が彼に告げた衝撃の真実とは――。
エゴイズムに衝き動かされる男女の駆け引きを赤裸々に描き、読者に審判を問う永遠の問題作!
本文より
夕方の買物に出てきた女たちが右往左往していた。子供の手を曳いた母親、幼い子を抱いた女、店の中で働いている女。おびただしい女の数だった。その女たちがことごとく繁殖する。(略)
しかし現実の社会においては、法律と習慣と道徳とが、自然現象を人為的な現象として取扱うことにしてしまった。人間の子供はさかのぼって、その出生の根源を追求され、出生の原因となった父と母とに、あらゆる社会的責任を負担せしめる。殊に父はその母から責任を追及され、さらにその子からも責任を追及される。(刑法第二百十七条・老幼、不具又ハ疾病ノ為メ扶助ヲ要ス可キ者ヲ遺棄シタル者ハ一年以下ノ懲役ニ処ス)……
本書「解説」より
この長編をうずめる文章のかなりの部分が、すべてを論理的に考えて行動する主人公の、そのときそのときの、理屈っぽい思考を綿密に写すことについやされている。(略)
つまりは、現代という時代の中で、イビツに発達した、あまりにも現代的な頭脳をもつ青年の悲劇を描くにあたって、(その悲劇は彼の思考の歪みからこそ出てくるものであるがゆえに)その歪んだ思考の実態を写すことに比重を置くのが、この人物のリアリティを泛(うか)びあがらせるのにいちばん確実な方法だと、作者は考えたのであろう。
――青山光二(作家)
石川達三(1905-1985)
秋田県横手町(現・横手市)生れ。早稲田大学英文科中退。1930(昭和5)年、移民船に便乗してブラジルに渡り半年後帰国、1935年移民の実態を描いた『蒼氓』で第1回芥川賞受賞。戦後は『風にそよぐ葦』や『人間の壁』など鋭い社会的問題意識をもった長編を続々発表、書名のいくつかは流行語ともなった。他に『結婚の生態』『青春の蹉跌』『その愛は損か得か』など、恋愛をテーマとした作品も数多い。